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銀星石のブログ

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銀星石のエッセイブログ

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※基本的に新劇場版でのエヴァンゲリオンを語ります。

 ロボットアニメの主人公とはヒーローです。彼らは友情や正義感に熱く。正義と平和にために、ロボットという力を使って悪と戦います。ガンダムのアムロ・レイのように、古典的なヒーロー象を持たないキャラクターも数多くいますが、、正義と平和のような大きなものまでは行かなくとも、仲間や友人たちといった自分にとって大切なモノを敵から奪われないために戦うという点では、ヒーローとも言えるでしょう。

 エヴァンゲリオンの碇シンジもロボットアニメの主人公です。エヴァンゲリオンがロボットアニメというのに反論を持つ方もいらっしゃるでしょうが、「主人公が人型の戦闘兵器を使って戦うアニメ」という広義的な意味でのロボットアニメということで納得していただきます。

 ここ最近になって思うのですが、シンジはヒーローを強要されているのではないでしょうか?

 シンジが「逃げちゃダメだ」と自分を鼓舞するあの有名なシーン。エヴァンゲリオンを初めてみた当時は特に思わなかったのですが、今の私にとって、あの場面は大人たちがシンジを脅迫していると感じるのです。

 あの場面では、シンジは一度戦うことを拒否し、その後重傷を負った綾波レイが初号機に乗り込もうとします。「お前が戦わないからこの娘を戦わせる。確実に死ぬぞ? お前は見殺しにするのか?」エヴァンゲリオンが特定の少年少女にしか動かず、使徒を倒さねば人類が滅亡するとしても、およそ真っ当な大人が行うようなこととは思えません。
 
 大人たちはただシンジに命令するだけです。「頼れるのは君しかいない。怖いのはわかっている。けれど人類のために戦ってくれ」そんな、あってしかるべき説得がありませんでした。碇シンジは人類を守るためのヒーローとして戦って当然。そんな図々しさがあの作品の大人たちに有るのではないでしょうか。

 碇シンジに最も身近な大人であった葛城ミサトも、シンジを気にかける様子を見せますが、どこか「戦って当然」という図々しさがあったように感じられます。ヤシマ作戦の前、気力を失ったシンジにやる気を戻させようとする時、「矢面に立つお前だけが危ない目にあっているわけではない。ネルフの全員がその危険を持っている」といいます。ああいう言い方が出るということは、やはり彼女にも「戦って当然のシンジを戦わせようとする」という意識があったのでしょう。

 新劇場版:Qにおける冷たい態度はその図々しさがあったからこそ出てきたと思います。サードインパクトを発生させてしまい、挙句のはてレイすら助けられなかったシンジはヒーローとして失敗してしまいました。破の時は「行け」とシンジの行動を応援したミサトはQでは「何もするな」といいます。あの言葉は、コイツはヒーローの出来損ないだという、図々しさからくる失望感によって出てきたのではないでしょうか。アヤナミレイを自分が知っているレイと思ってネルフへ言ったシンジを止めるため、チョーカーをミサトが爆破しなかったのは、単に申し訳程度に残っていた良心がそうさせたのでしょう。

 シンジがヒーローとして奮闘できたのは、自分にヒーローを強要しない人達のためです。序では自分に感謝と声援を送ってくれた友人たちのために。破では父親との仲直りを手伝ってくれたレイのために。元々、シンジにはヒーローとして資質があったのかもしれません。ですが、ヒーローを強要する大人たちが逆にシンジを内向的にしていたのかもしれません。

 そう考えると、二次創作の色合いが強いですが、スーパーロボット大戦シリーズでシンジがかなり前向きな性格に成長するのも、彼にヒーローを強要する大人がほとんどいないためでしょう。兜甲児や流竜馬は決してシンジにヒーローを強要しません。「戦いが怖いなら無理をする必要はない。俺が君の分も戦う」彼らならそう言うかもしれません。それに加えて、シンジと似た境遇を持つ少年少女も多く居ます。ヒーロー達と共にいる。自分の気持ちに共感してくれる人達がいる。その環境が、シンジを前向きにするのでしょう。
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by ginseiseki | 2014-03-15 08:55 | その他
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